見取図
見取図の赤線部分が今回載せる行動範囲(経路)であり、図面右上から始まる。なお、裁判記録によれば、被告の移動手段は㉘地点より自転車から徒歩へとかわり、さらに㉛地点付近からはスコップを所持した状態で移動を続けたことになっている。
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自転車での移動とは言え、見取図⑯地点からこの付近まで来るとさすがに体力を消耗する。この先は歯を食いしばっての行動となる。
見取図「未舗装道路」及び不老川付近。
この道を直進する。
見取図㉖地点。
この㉖十字路を右折。
この先に、石川被告が被害者宅の場所を尋ねたという民家㉗と、被害者宅㉘があるのだが、私はそれを撮影することを控えた。
㉗㉘地点を通過し㉙地点に向かう。石川被告の供述によれば、⑯地点から乗ってきた自転車は脅迫状とともに㉘地点に残したため、ここからは徒歩による移動となっている。
見取図㉙地点十字路を右折したところ。写真やや左側の大きな建屋はもしかすると、元・松留織物工場かもしれない。
この先のT字路が見取図㉚地点。突き当たりを左折する。写真右奥は元・狭山市水道ポンプ小屋。
左折直後の状況。
㉚地点T字路を左折したところ。道路右側には不老川が流れ、その先に権現橋がかかる。写真左側には、かつて石田養豚場があった。
見取図㉛地点。ここで当時の状況をもう一度確認しておくと、石川被告は被害者宅㉘地点より徒歩で石田養豚場㉚〜㉛地点付近を訪れ、その敷地内からスコップを盗み出し、スコップを手にしたまま徒歩で移動していることになっている。
見取図㉜地点及び㉝地点。
同地点十字路。
見取図㉞地点十字路。
㉞地点を右折したところ。
㉞地点(当時)。
写真中央には五差路があり、向かって右辺りが㉟地点、さらにその右奥(写真では死角となって見えない)に㊱地点(佐野屋)、写真中央左手が㊲地点となる。
見取図通りこの五差路を左折する。
付近には意外にも事件当時の面影が残っていたりする。
(当時の状況)
この道路は薬研坂と呼ばれている。昭和38年当時、非舗装道路であり巾員4.5m、街灯など無く、夜はおろか昼でも薄暗く、通行することが憚れたという。
右手に山本製作所が見えるが、ここが㊳地点。
見取図㊳地点。
数十メートル前方に見取図㊴地点がある。
㊴地点を右折したところ。
ここを直進してゆくと見取図㊵㊶地点に到達するわけだが、疲労のため私は写真撮影を失念してしまう。
㊵地点から略西方を撮影。
㊵地点の略北西方約百メートル進んだ地点から略南東方を撮影。
見取図㊷地点(この地点の説明には"本検証終了地点"とある)。
一応、「見取図と同じ犯行経路を辿る」という私の行動はこの㊷地点でその目的を達したわけだが、石川被告による自白調書に基づけば、犯行はまだ続くのである。
供述では石川被告はこのまま、つまりスコップを持ち徒歩で被害者の遺体を隠匿してある芋穴へと向かい、さらなる犯行の隠蔽作業を行なうのである。
被告は養豚場から持ち出したスコップで農道へ穴を掘り、あらかじめ近くの芋穴に吊るし隠していた被害者の遺体を引き上げ、先ほど掘り終えた穴へうつ伏せに入れ、埋めた。犯行に使用したスコップはこの場所から百二十四メートル北西方向の麦畑へ捨て帰宅したという。
芋穴から遺体を取り出しあらかじめ掘り上げた穴へ埋めるという再現実験。
上の写真三点は狭山事件再審弁護団及び支援団体による再現実験("無実の獄25年・狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部・編、解放出版社"より引用)。