アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 499

【公判調書1613丁〜】

三つの「証拠物」                                              宇津泰親

〈 鞄 〉

三、『なお、六月二十一日付青木調書には、取調時刻が午後五時頃とあるのはどういうつもりであろうか。原審第五回公判で関源三は、「六月二十一日朝に被告人に書いてもらった図面で探しに行ったが無かった。そして同日午後三時半に被告人にもう一度図面を書かせて、午後四時頃に発した」と言っている。しかしその青木調書の取調時刻は午後五時である。まったく辻褄の合わない話ではないか。

とにかく、関源三は五月三日、四日の両日、山狩りに参加したし、鞄が出たという場所を含んでかなり広範囲になされた山狩りであった。そして彼はゴム紐の発見者でもある。本件鞄は、被告人の自供よりも前に、何らかの方法ないし経緯によって警察の手に入っていたと考えなければならないのではないか。ともあれ、当裁判所においては、これらの問題を巡ってさらに徹底的な真実の究明がなされる必要がある。そしてそのためには当時の捜査官たちに対する取調べをさらに重ねる必要がある』

四、『被告人は、五月三日にゴム紐が発見された場所について、逮捕される前すでにテレビ等で知っていたし、逮捕され狹山署にいる時にポリグラフにかけられたとき、教科書が発見されたという場所を図示されて、そこは川ではない、溝だなどと係官と論じたこともある。そういう被告人が、青木一夫、長谷部、関源三といった顔馴染みの取調官たちと冗談をたたきながら、取調官に教えられたり、自分の思い付きをも交えながら、鞄を捨てたという図面を作った。こういう情況は、当審の関係証言を総合すれば容易に推認できる。

さらに言うならば、警察は六月二十一日か、あるいはとにかく被告の自供時期とはおよそ関係のない日時に鞄を実際に入手しておきながら、被告人が関に三人でやったことを述べたのちの六月二十四日か二十五日頃に、警察がわざと被告人に鞄を捨てたという場所を誘導して書かせ、しかも二回も書かせた。そして、最初の図面では発見出来なかった、本当はここだろうと教えた図面をまた書かせた。その間、関源三は、いかにも一回目の図面を持って探しに行くようなふりをして取調室を出て、青木たちに時を見計らって電話を入れ、どこかで洋服の尻や手を泥だらけにした格好をして戻り、こんなになって探したが無かったぞという芝居を打った。青木や長谷部はこの筋書を当然知っているから、関が退室するや、被告人が書いた場所は違うだろう、実際埋めたのは川のところじゃないか、その川のところを書けと言った。被告人は、川ではなく溝だと話しながら地図を書いた。それをとって長谷部たちは、泥まみれになって舞い戻ってきた関源三に、今度は間違いないから行ってくれと言った。その後、被告人は二回目の地図によって鞄が出たと聞かされた。彼は長谷部の、この凄い勘にすっかり感服した。当審における証拠は、こういうとんでもない光景が実際の取調べ状況であったことを雄弁に物語っている』

*次回〈鞄〉五、に続く。

○現在引用中の文章は、他ならぬ「狭山事件公判調書第二審」がその原典となる。れっきとした、由緒正しい正真正銘の裁判記録である。そのような性質の書物に上記のような文章が記録されている、いや、言い方を変えると、記録される事を踏まえ弁護人は発言しているとすると、その発言内容は確度の高い情報に裏打ちされているのかも知れない。つまり、ほぼ真実の暴露に近いのかも知れない、などと考えてしまった。とりわけ今回引用した内容は、巷に出回る狭山事件推理本など消し飛ぶほどの刺激と信憑性に満ちている。事件の弁護に当たる専門家たちの意見は侮れない。