アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 467

【公判調書1574丁〜】

                           「狭山事件の特質」 

                                                                          中田直人

二、公判経過

2.『当審は、被告人自らの控訴申立によって始まった。昭和三十九年九月十日、第一回公判が開かれた。弁護人の控訴趣意陳述後、被告人は自ら発言を求め、裁判長の説諭にもかかわらず「お手数をかけて申訳けないが、私は善枝さんを殺してはいない、このことは弁護士にも話してはいない」旨述べた。これは、我々にとって突然の発言であった。この時の状況について弁護人はのちに公判調書の正確性について意義を申立て、久永裁判長はその事実の存在自体はこれに対する意見で認めている。第一回公判における被告人のこの発言から本件は新しい展開を見せた。

当審審理は先ず、弁護人請求の検証から進められた。第一回ないし第三回検証が昭和三十九年十一月二十九日から翌年六月三十日の間に渡って行なわれた。その第一回検証と第二回検証の間にあって、四十年三月下旬、弁護人が被告人によって解任されるという事態が起こった。裁判所の記録にも編纂されているところであるが、自ら被告人の補佐人であろうとした萩原佑介なる人物の、被告人と弁護人の防禦活動に対する干渉、妨害のためである。我々は、この事件が、萩原なる人物の奇狂な言動が巻き起こした一つの波紋にとどまるものではなく、被告人が否認したことに対する、もっと大きな圧力の結果であったことを疑うに足るいくつかの根拠を持っている。しかし、ここではこれ以上触れない。ただ、真実を述べて、従来自分を取り巻いていた諸々の圧力をふり払い、自らの力で歩き出そうとした被告人自身の毅然とした態度によって、その企みは打ち砕かれたことだけを明らかにしておこう。二週間ののち、我々は再び弁護人に選任された。昭和四十年七月十三日の第二回公判、七月十五の第三回公判において被告人は、一審における死刑判決の基礎とされた自白が全くの虚偽であったこと、虚偽の自白をなぜ為すに至ったか、自己の真実の行動は何であったかを初めて明らかにした。当審では、二十九回公判、四回の検証が行われ、数回の被告人尋問、二十九人の証人、筆跡、血液の各鑑定その他若干の証拠書類が取調べられ、いったん証拠調べを終わった』

(続く)

*本文とは全く関係ないが、写真は黄昏時を迎えた東京競馬場である。今年、五十半ばで始めた博打、その収支は当然マイナスであり、その意味において老生はすでにJRAのカモに成り下がっている。だが、博打をこの年齢で始めた場合、そこには誰に言われるでもなく鉄のルールが生まれてくる。それとは、例えば投資金額の上限であったり、レースの選択であったり、等である。このルールが生まれるに至った理由は、やはり競走用家畜の気まぐれまでは予想出来ないからだ。馬にもその日の気分というものがある。そんな、馬の感情にまで付き合っている暇はない。ちょっと大袈裟だが、残された人生の時間が少ない者は、物事について短時間で核心に辿り着こうという姿勢が生まれ、やたら熱心に取り組みだす。老生にしても、十数回における馬券購入で見えてきたものも確かにあり、来年こそそれを証明してみたい。なお、百円で1レースを楽しめることは素晴らしい暇つぶしだと思われる。