アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 466

【公判調書1573丁〜】

                       「狭山事件の特質」

                                                                          中田直人

二、公判経過

1.『浦和地方裁判所における第一審公判は、昭和三十八年九月四日開始された。被告人は控訴事実をすべて認め、弁護人は冒頭、別件逮捕をはじめとする捜査の数々の違法を明らかにし、その中で収集され公判に提出されようとする証拠の十分な批判と、世間を支配する「被告人は犯人である」という雰囲気に左右されることのないよう慎重な審理を求めた。しかし審理は異例の早さで進められ、三十九年一月二十三日までの五ヶ月間に十回の公判を重ね事実調を終った。検察官請求の証人は延べ四十五名、検察官請求の証拠も多くを数えたが、昭和三十八年十一月二十五日の第八回公判で終了した。しかし、弁護人の反対意見があったにせよ、自白調書、証拠物、領置調書、実況見分調書、鑑定書等を除いて、検察官がその主張を立証するのに必要と考えた検察官請求の膨大な証拠のうち、調べられたものは数少なかった。例えば実際に取調べられた証人の四十五名は、検察官の全請求の百四十四名の三分の一強である。このことは極めて特徴的なことである。弁護人は第八回公判で証人十二名、並びに被告人の精神鑑定を請求し、昭和三十八年十二月二十六日、さらに証人十九名、検証の請求、および詳細な理由を附して精神鑑定の再度の請求をなし、三十九年一月二十三日、第十回公判でも証人一人、証拠物一、証書一の請求を行なっている。原審はこれらのうち立証事項を情状に限って証人五名(但し一名、決定後撤回)を採用したのみで他の一切の証拠を却下した。当然公訴事実に対する反証はすべて却下されていた。公判廷に提出された被告人の自白調書は六月二十日付から始まり、七月八日起訴の前日付まで五十三通に及び、被告人は公判廷においても終始自白を維持した。

三十九年二月十日、検察官は被告人に論告して死刑を求め、同日弁護人は被告人が公判でも自白を維持し続けたにもかかわらず、無罪の弁論を行なった。取調べられた自白調書は一見不合理であり、取調べられた客観的証拠と多くの点で食い違い、被告人の犯行と断定するにはあまりにも多くの疑惑があったからであり、裁判が厳正な証拠の批判を通してなされるべきである以上、我々の態度はそれ以外ではあり得なかった。三十九年三月十一日、第一審浦和地方裁判所は検察官主張の公訴事実をすべて認め、被告人に死刑を言い渡した。その判決が特段に強調したのは、鞄、万年筆、時計等の被害品が被告人の自白後、その自白の結果発見されたということであった』(続く)

*厄除けのため府中の神社を訪れた。

賽銭箱に百円を投げ入れ、その金額に見合わぬ膨大な量の願望を唱え祈願する。