アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 372

【公判調書1354丁〜】調書

右の者に対する強盗強姦殺人死体遺棄被疑事件について、昭和三十八年六月二十日川越警察署分室第一取調室において川越簡易裁判所裁判官・平山三喜夫は、裁判所書記官・町田類作立ち会いの上、右の被疑者に対し氏名、生年月日、職業、住居及び本籍を質問したところ

氏名は         一夫こと石川一雄

生年月日は  昭和十四年一月十四日生(二十四才)

職業は         鳶職手伝

住居は         狭山市大字入間川二九〇八の一

本籍は         右に同じ

と答えた。裁判官は、終始沈黙し又は個々の質問に対し陳述を拒むことができる旨並びに右の事件を告げ、これに関する陳述を聴いたところ被疑者は事実(○○*1さんのこと)は知りません、事件を起こしていないという事をお話しするという意味のことを話しただけで裁判所へ行っても○○(被害者名)さんのことについては知らないから知りませんと答えた。なお、裁判官は弁護人の選任ができる旨を告げ、且つ勾留通知先を尋ねたところ、勾留通知先は・・・・・・(注:1)と答えた。   被疑者  石川一雄

右のとおり読み聞かせたところ相違ない旨を申立て署名指印した。

裁判所書記官  町田類作

(注:1)原文では空欄となっている。

さて、老生が今、公判調書を読みながら迷子になりかかってきたので一旦ここで整理整頓しておこう。公判調書1304〜1354丁に記載された記録は、昭和四十三年、東京高等裁判所で進行中の狭山事件第二審において、石川一雄被告人及び弁護団より証拠請求された供述調書二十一通であり、この供述調書の日付は昭和三十八年五月から七月であるから、事件発生から間もない時期の供述調書である。それを前回まで二十数回に渡り引用したわけであるが、昭和四十三年の記録に昭和三十八年の記録が割り込んでいることが、老生が混乱した原因である。裁判記録とは非常に込み入った記載方法を取るのだなと感心してしまう。ところで、引用した二十一通の供述調書から「被告人石川一雄に対する取調べ状況および同人の供述経過」が明らかになったかどうか検証しなければならず、ここが重要である。踏みとどまって考えなければならないが今は保留とし、先へ進むことにする。

写真は、本文とは関係ないが狭山事件再審に向け大いなる貢献を果たす記録である。昭和三十八年五月二日夜半、犯人による脅迫状の指示にしたがって、被害者の姉、登美恵さんは地元の酒類販売業、屋号を「佐野屋」と名乗る小さな店舗に出向く。問題は、同日同時刻帯に、姉の準備した身代金を喝取せしめんと佐野屋に現れた(とされる)石川一雄被告人、その自白の中に語られた状況である。

この、身代金受け渡しの場所、脅迫状に指示された五月二日の佐野屋前の状況は、実は狭山警察署の職員と埼玉県警の職員からなる混成部隊約四十名が佐野屋周辺に潜伏していた事実が判明しているが、今、それは関係無く、本当に石川一雄被告人は佐野屋に来たのか、そこである。再現実験の結果によると、事件当夜は佐野屋前の砂利道を車やバイク、自転車などが通っているが、犯人の潜んでいた場所からすると、その音は確認出来、石川一雄被告人の言う「.何も気が付かなかった」旨の供述は破綻するのである。(写真一枚目は砂利道を走る自転車の再現実験。写真二枚目は佐野屋前の砂利道を走る車の音を測定している。二点の写真は“無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社”より転載)

*1:被害者名