アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 356

【公判調書1317丁〜(5/21)】

供述調書(甲)石川一雄

右の者に対する恐喝被疑事件につき、昭和三十八年五月二十八日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意志に反して供述をする必要がない旨を告げて取調べたところ、任意次の通り供述した。

(一)私が今迄申上げた事で異なっている事や話し足らない事が有りますからその事について申上げます。五月六、七日の夜、家の者が全部揃って居て茶の間でテレビを見ている時です。六造兄ちゃんが私に対し、○○(被害者名)さんは五月一日の三時から五時頃迄の間に殺されたんだ。俺は十時頃まで入曽の山ちゃん(おでんや)へ行っていたから大丈夫だ。刑事が来て色々の事を聞かれたら、一雄お前近所の水村福治さんの処で俺と一緒に仕事をしていた事にしておけと言われたのです。この事は六造兄ちゃんには父富蔵から前もって話しがしてあり私のアリバイを作る話しをしてくれたのだと思います。ただ今福治さんの家と申しましたのは水村しげさんの家の亭主です。

(二)次に、その時であったかその後であったか思い出せませんが、五月三日から十日頃までお客に来ている一枝姉さんに、一雄、お前アリバイなど作っても致し方ない、もしそのアリバイが崩れたら大変だ。自分でやっていなければそんな事をする必要がない、と言われました。

(三)次は五十子米屋の手拭いの事についてお話し致します。日取りの点は覚えておりませんが私の五月一日のアリバイについて話しが出た後の事でした。警察から刑事が来て五十子米屋から手拭いを貰っている家を片っ端から調べているそうだと父富蔵が言い、その時私に、一雄お前五十子米屋から貰った手拭いを知らないか、と言うので私は知らないと返事をすると、俺の処でもその手拭いは探さなければならないと言う事で、家中で探しましたが、その時手拭いは見つかりませんでした。そこへ兄さんが昼間の仕事を終わり帰って来たので父富蔵が六造兄ちゃんにその話しをすると、兄ちゃんもそれでは見つけようと言う事で自分の行李かタンスを調べたり五十子米屋から貰った手拭いが二本見つかりました。中一本はお手富貴(おてふき)の袋がかぶっており、他の一本は中身の手拭いだけでした。その時兄ちゃんはそのまま仕舞ってしまい、その翌日か翌々日、刑事が私の処へ来て五十子米屋から貰った手拭いを見せてくれと言うので家の人が見せたという事を後で聞きました。その手拭いは警察が見ていったからよいという事で一本は父ちゃんが鉢巻用に下ろしてしまいましたら、その後、又幾日か経て刑事がその手拭いを貸してくれと言って持って行ったという事を母から聞きました。

(四)次に、私は五月三日の日は、前回聞かれた時はお昼から兄ちゃんや三郎さん、父富蔵らと近所水村国治さんの処に仕事に行ったと申しましたがその通りで、午前中は友達の水村正ちゃん、石川太平、樋口明らと入間川小学校へ野球の練習に行ったのです。

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申立て署名指印した。

於狭山警察署  刑事部捜査第一課  司法警察員警部  清水利一

*この供述調書は五月二十八日に取られている。兄の六造は、定職に就かぬ弟の身を案じ、念の為アリバイを作った。もちろんその意図は殺人犯をかばう事ではなく、警察のような厄介者たちから身内に災いが及ばぬよう先手を打った意味合いが強い。この狭山事件は差別問題と絡めて語られ、関連する出版物も概ねそれを主軸にした書籍が大半を占める。だが、老生がこの公判調書を読む限り、差別というより貧乏な、貧農な世帯を警察は集中捜査したと、こう捉えることが出来るのであり、確かに当時の狭山地方に差別問題が存在した事は事実であるが、中部・西日本ほどの激烈な差別問題とはその深度が違うと、こう思うのである。そして何よりも今回引用した供述調書の具体性などを見ると、この時警察が徹底的に調書の裏付けを取っていれば、事件とは無関係な人に罪を被せるような愚行を防ぐことが出来た筈である。

写真は事件当時の石川一雄被告人宅。