アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 229

 『2.A : 狭山市入間川一七七四  高橋ヤス子』『B(一)昭和三十八年五月一日午後、証人方の手伝いの娘が、自白で被害者を捕まえたという十字路近くの畠で仕事をしていたが、その際被告人らの姿は見なかったということが話し合われた事実。(二)1. の証人のB(二)に同じ』『C(一)昭和三十八年五月一日午後、証人方の手伝いの娘は畠仕事をしていたか。それはどこの畠か。(二)証人は午後四時頃、来客を送ってその畠近くまで行ったことがあるか。その娘はまだ畠仕事をしていたか。その日雨が降ったか。(三)その後、手伝いの娘が仕事中、被告人らのような二人連れを見ていないことが話し合われたことがあるか。(四)証人方では、五十子米店から手拭を貰ったことがあるか。その手拭について警察から調べられたか。(五)その他関連する事項。』『D.三十分』(続く)         
事件現場周辺で畠仕事をしていた人々の証言は非常に重要である。写真は被害者の遺体が発見された昭和三十八年五月四日の撮影であるが、写真中央付近が遺体発見現場であり「×」印が付いている。そして非常に見づらいのだが写真上部、やや右側には「A」「B」と書かれた印が確認できる。「A」は殺害現場とされる雑木林であり、問題は「B」の畠にある。実は被害者が殺害された五月一日、ここで畠仕事をしていた男性が居たのである。その農作業を行っていた時間帯は、犯行が行われたとされる時間と拮抗しており、もし石川一雄被告人の自白通りだとすれば、なぜ「B」地点にいた男性に目撃されず、「A」で殺害し「×」へ移動(しかも遺体を抱き抱え)出来たのか納得がいかなくなる。自白によると、殺害時に被害者は悲鳴すら上げているのだ。写真を見ると「A」「B」「×」はかなりの近距離であることが確認できる。さらに写真から確認できるのは手入れの行き届いた茶畑・畠であるが、五月一日も畠仕事に精を出す人々は思いのほか存在したと見られ、弁護側の請求する証人に農作業者が含まれている事実を知れば、それは明らかである。(事件現場の写真は“ 無実の獄25年 狭山事件写真集 部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編  解放出版社” より引用)