アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 161

(前回より続く)*フランス*「フランスでは十四〜十五世紀から筆跡鑑定を職業とする専門家が現れギルドを作っていた。一五七〇年には国から保護を受け、筆跡鑑定人(master-writer)として筆跡鑑定をする特権を王から与えられた。その後多くの変遷を経てルイ十四世(一六六一〜一七一五年)の時には、国家試験によって資格を与えられた鑑定専門家として法的に認められた。さらに一七二七年には、王直々の規定のもとに厚い保護を受け、非常に名誉ある職となったらしい。鑑定人は一般的教養はもちろん、古文書にも通じており、教学にも練達しており、態度、振舞い、会話なども威厳を持つように要請されていた。筆跡鑑定人に対するこのような厚遇は、必ずしも筆跡鑑定の質が向上し、社会秩序に貢献したからだとは言えない。むしろその逆のことが想像されるのは、この当時のフランスの政治について思い巡らせば十分であろう。フランスの初期に、筆跡鑑定の間違いで無実の罪を受けた例は、ロンシェール中尉がモレル将軍の令嬢に匿名の恋文を何通か書き送った、というかどで十年の禁固刑になった事件である。幸い、十四ヶ月の服役で無実であることが判り復職した。後になって五人の鑑定人の内、四人までがロンシェールの筆跡ではないと鑑定し、さらに、ある若い女性が真犯人であることも判明したからである。この場合、問題の手紙の方が遥かにロンシェール中尉より達筆で、字の下手な人がより達筆な人の筆を真似ることは不可能だという、当然ではあるが、貴重な経験をしたと文献は残っている。フランスでの最近の例は十九世紀から今世紀にかけてのドレフュス(Dreyfus)事件である。「チボー家の人びと」を書いたマルタン・デュ・ガール「ジャン・バロワ」の第二部に史実に沿っての詳しい記述がある。当時パリ駐在のドイツ大使館から出る紙くず類は、全部フランス側に渡って整理されていたそうである。たまたま、その屑かごの中から、ドイツ側にフランスの軍事機密を送ったという明細書らしいものが四つに裂かれて発見されるという事件が起こった。この機密を送った疑いでユダヤ系のドレフュス大尉が逮捕されたのは一八九四年のことである。行われた最初の二人の筆跡鑑定人の鑑定結果では、一人はドレフュスの筆跡ではないと言い、他の一人はドレフュスのものであると鑑定した。さらに鑑定人の数を増やした結果、全部で五人の内三人がドレフュスの筆跡であると鑑定した。この段階では、軍事法廷では証拠不十分だとして釈放するつもりだったが、某将軍が弁護人も入れない非公開の法廷でドレフュスに不利な書類を見せたため、ドレフュスは官を辞めさせられ終身流刑の刑を受けた」・・・(続く)

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(私の燃料となる液体である。薩摩富士は紫芋を使用、お湯で割ると、ほのかに芳醇な香りが漂い、大脳皮質は幸福感に包まれる。前もって焼酎と軟水を5:5で割り一晩寝かせ、これを陶器に入れた上で炭火でじんわり温める。人肌まで温まったら飲み頃である。肴は、鮎の内臓の塩辛 “鮎うるか” がとても合う)