アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 493

【公判調書1604丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(七)、長谷部の口による足跡採取の話が出てきたから、そのことについて最後に触れておく必要がある。というのは、この実況見分調書本文には、どこにも足跡を採取したとは書いていない、という事実である。もっともこの見分は五月四日に行なわれたといい、長谷部らが足跡を採取したというのは五月三日という話になっているから、調書に採取の記載がないのは当然かも知れない。しかし不思議なのは、どうして足跡採取と実況見分を別にしたかということである。

捜査の普通の常識では、犯行現場に犯人のものと確認できる足跡が発見されたら、まず、その状況を記録に止め、しかるのちに、石膏でそれを採取するのが普通である。そうでなければ、少なくとも捜査員の足跡や、採取作業などで、足跡の原型やその周辺の状況が破損するからである。だから、まず実況見分し、しかるのち足跡を採取するのである。ところが本件ではまったく反対であった。まず足跡を採取し、しかるのちに、それが犯人のものかどうか確かめ、最後に実況見分をしたという。それも、足跡自体の情況は隠しての話である。これが、どうしてまともな捜査と言えるであろうか。そこには黒い影がある。

(八)、もう一つ。今見たように、調書本文には足跡採取のことがまったく触れられていないのに、添付写真の中に「足跡採取地点」と註記のしてあるものがある(第九図)。この事実も注目に値する。添付写真は、調書本文を補う目的のものである。したがって、添付写真に「足跡採取地点」と表示するなら、本文にもそれが当然出てこなくてはならない道理である。実際にこの実況見分の際、足跡採取が行なわれたのではなく、その故に、足跡採取のことを調書に記載しなかったとすれば、添付写真にそのことが記載されるわけがない。

したがって、この実況見分調書の本文の部分と添付写真は、別の機会に作成され、のちに一つの書類に綴じ合わされたものであることがはっきりする。前に述べたが、調書本文で、足跡の種類が「地下足袋」と訂正表示されたのは、調書作成時と別の拶会であった。おそらく、この調書訂正と写真の添付は同じ機会になされたのであろう。そして、この添付写真が、足跡のあった位置の遠景写真だけであるのに、調書本文には、足跡を直接撮影した旨の記載があることとを考え併せると、この添付写真は、本来のものとすり替えられた可能性があると云わなければならない。

(九)、こうしてみると、本件では、捜査段階に作成された証拠の上では、果たして現場に犯人のものと確認できる足跡があったのかどうか。果たしてその足跡が本当に採取されたかどうか、の証拠がない、という明白な事実を確認できるのである。そして、それが単に存在しない、というだけのことではなく、その存在しないことに関する状況が、故意の人為的な加工によるものであることが確認できるのである。

のちに、証人の形で、引用した長谷部梅吉やその他の者の「口」によって、この点が補充されているが、そのこと自体が奇妙であるし、彼らがもっともらしく語ってみせたところで、捜査自体の奇怪さは少しも変わらないのである。

こうして、われわれは、鑑定資料にされた被疑者の足跡石膏なるものが、果たして本当のものかどうか、という疑問に突き当らざるを得ない。ともかく、それが、現場にあった被疑者の足跡であることの、客観性ある証拠資料はまったくないのである。

*以上で『二、足跡採取の怪』の引用を終える。

次回は『四、鑑定の怪』へと進むが、ここで『三』が抜けていることに気が付き執念深く探すも、結局見当たらず。つまり公判調書の文面では“四”という数字が印字されているが、正確には“三”と思われ、『三、鑑定の怪』が正確な表記であると思われる。それと文中に出てくる「足跡採取地点・第九図」なる添付写真は手持ちの公判調書には載っておらず、掲載できないことが残念である。

 

狭山の黒い闇に触れる 492

【公判調書1602丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(六)、『もっとも、この点についても、二審証人長谷部梅吉は答弁を用意してきた。彼は、第二の足跡について、五月三日の夕方に捜査員を集めて調べたら、「当時そこへ入った者もないし、そのように歩いた者もなし、またそういう地下足袋を履いた者もない」ので、これは犯人のものに間違いないと思った、と供述している。

しかし、足跡が犯人のものである根拠が捜査記録上にはまったく出て来ず、後に捜査の責任者の「言葉」だけで説明されるということ自体、われわれの通常の常識からみて異常なことである。

この証言の内容についてみても、第一、深夜多数の警察官などが慌てふためいて畑の中を飛び廻ったのに、翌日になって「そこ」へ入ったことがないとか、歩いたことがないなどと断言できる者がいるであろうか。また、静寂そのものの深夜に、犯人の来ることがわかっている傍らで張込もうというからには、誰でも、少しでも音の立たない履物を履こうと考えない者はないはずである。そしてここは農村なのであるから、地下足袋はもっとも普及した普通の履物である。そこに張込みに行くのに地下足袋を履いた者が一人もなかったとしたら、むしろ、そのことの方が不思議である。現にこの実況見分調書にも「無数の・・・地下足袋・・・跡が認められ」たと書いてあるではないか。

長谷部の話が、地下足袋を履いて行った者はいたが、現場にあったような「そういう地下足袋を履いた者」はいなかった、という意味なら、これまた尚おかしいことになる。現場の地下足袋跡は、形状等が「明らかでな」かったのであるから、「そういう」ものかどうか判断する基準がないからである。大体、長谷部の右の話は、彼らが三日の午前中に足跡を石膏で採取したというお話が前提になっているのである。そうだとすれば、長谷部等はまだ犯人のものと確認しないうちに石膏をとり、その後で、それが犯人のものだと理由付けたことになる。それも「言葉」だけで。

もちろん、こんな話は信用できるものではない。ここでも長谷部の証言は、はっきりした偽証である』

*次回、(七)へ続く。

写真は“無実の獄25年狭山事件写真集=部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社”より引用。

狭山の黒い闇に触れる 491

【公判調書1601丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(五)、『ここまで考えたとき、われわれは次のような重要な事実を指摘しておかないわけにはいかない。それは、この実況見分調書は、足跡について誤りながら、驚くことには、足跡自身の状況についても、足跡のあった場所の状況についても写真がなく、あるのは、ただ足跡があったという場所の遠景写真のみである、という事実である。

これは、この調書の書類形式上、もっとも奇怪な部分であり、明らかに捜査当局の普通のやり方とは違うのである。

誰でも知っているように、犯行現場に犯人の足跡が発見されたら、それがなぜ犯人のものと思われるかの状況を調書に記載するのみならず、その足跡自体を写真に撮影し、第三者にその状況を直接認識し得るようにするのが正常なやり方である。それを、足跡のあったという場所の遠景写真だけを添付するとは、まったく奇怪なやり方である。実際に、このとき見分者が足跡自体の写真を撮らなかったとすれば、そのこと自体、重大な問題である。もしも、実際には足跡の写真を撮ったのに、それをわざと添付しなかったとすれば、それは一層重大な問題である。

ところがこの調書をみると、どうやら、これは右の後者の場合のようである。何故ならこの調書の中には、第一の足跡についても、第二、第三の足跡についても写真を撮影したとはっきり書いてある。第一のものについては「足跡一ヶが認められたので写真撮影した」と書いてあり、第二、第三のものについては、足跡が「二ヶ所あったので写真撮影した後見尺をなす」と書いてある。この記載はどう見ても、足跡のあった場所附近の遠景写真を撮ったという意味ではない。そうすると、実際に撮った写真が警察によって隠されてしまったことになる。

なぜ、こんなことをしたのか。捜査の目的と性格を念頭におき、本件の足跡に関する以上のような情況に照らして考えると、われわれには、これは、見分者が「被疑者の印象」したものとした足跡が、「被疑者」のものであることの根拠がないことを隠蔽するためであるとしか、考えようがないのである』

*次回、(六)に続く。

狭山の黒い闇に触れる 490

【公判調書1600丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(四)、『第二と第三の足跡については、ひとまとめにして最初「被疑者の足跡と思料される通称地下足袋跡が印象されてあったのは二ヶ所あった」と書いてある。これは不思議なことに地下足袋を履いていたと決めてかかった書き方であるが、それが何故犯人のものと「思料される」かの説明や資料はここでもまったくない。それどころか、右の文章は単なる前文であって、その後の肝心の本文では、第二の足跡は「土がくづれており、明らかでない」と書いてあり、第三の足跡についても「明らかでない」と書いているのである。この文章の通常の意味は、形状、大きさなどが「明らかでないから、何の足跡かよくわからない」という意味である。そしてみると、この足跡が地下足袋のものということ自体も疑わしいと考えてよい。

ここまで推論してくると、われわれは重大な事実に気がつく。

前記のように、第二、第三の足跡は「通称地下足袋跡」だと前文に書いてあるが、それは、もともとそう書いてあったのではない、という事実である。調書原文を見ると、そこには最初「長」と書きかけてそれを消し、次に「素足跡」と書いてあったのである。それを別の機会に (別の機会というのは、調書全体はカーボン紙を挟み鉄筆で書いてあるが、訂正はペン書きであるからである) 「通称地下足袋跡」と訂正したものであることが明瞭である。

素足跡と地下足袋跡は、確かに形状が似ているから、どちらか判断を誤ることはあり得る話ではある。しかし、見分者がいったん素足の跡と判断して調書に記載したものを、後になって地下足袋の跡と訂正するには、そこに何かの新たな事情が介在しなければならない。それは何か。われわれには、まだそれを確かめる手段がない。しかし、いずれにしても、この足跡が素足か地下足袋か迷うほど不鮮明なものであったことだけは間違いないのである。

では、またどうしてこれが犯人の足跡と「思料され」たのか、これまた、まったく不思議な話である』

*次回、(五)へ続く。

狭山の黒い闇に触れる 489

【公判調書1599丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(四)、『発見した足跡の数が少なかったという問題は、これで解決した。しかし、問題はその先にある。現場の状況が右のようであったのに、見分者はどうやって特定の足跡を犯人のものと認識したか、という問題である。前に見たように、状況上一番発見しやすいと思われる、犯人の潜んでいた場所を見分者は確認していないのである。したがって調書記載の犯人の足跡を、右の地点との関連で説明することはもちろんできない相談である。

では、他に何か資料があったのであろうか。調書上なにも資料がない。大体この段階では、捜査官はどこの誰が犯人で、犯人がどんな履物をはいてきたかも知らないのであるから、特定の足跡を犯人のものと考えるには、そのように推定できる客観的状況がなければならない。しかし、調書にはそのことについての説明は一切ないのである。というよりは、その認定には、むしろ根拠がまったくないことを調書の記載は物語っているのである。

第一の足跡については、それがどんな履物の跡であるか、鮮明なものであったかなかったか。これらについて調書は一切書いていない。しかし、この足跡は石膏で採取しなかった(採取したという証拠がどこにもないから)のであるから、不鮮明であったことには間違いないであろう。履物の種類も書いていないところを見ると、第二、第三の足跡にはそれが一応書いてあるのだから、この足跡はそれも不鮮明だったと考える他はない。とすれ、ばそれがどうして犯人のものと「思われ」たのか、まったく不思議な話ではないか』

(次回、“第二、第三の足跡”に続く)

 

 

狭山の黒い闇に触れる 488

【公判調書1598丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(三)、『畑の中の土壌は非常に柔らかかったのであるから、実際に犯人がやって来て畑の中に潜み {そのことは争いのない事実であるが } そこから逃げて行ったのであれば、その連続した足跡を、その潜んでいた場所を含めて発見することは、普通なら容易なことである。それなのに、なぜ、この調書のように飛び飛びの僅かな数の足跡しか発見することが出来なかったのか。その理由は、われわれが当夜の情景を頭に思い浮かべてみれば簡単に理解することができる。

警察官が多数張込んでいた直ぐ眼の前に犯人が来た。それを、不覚にも一瞬遅れて取り逃がしたのである。犯人がすでに遠くに逃げ去った後になってそのことに気が付いたのであれば、警察官も始めから追いかけることを諦め、すぐ現場保存にでも着手したであろう。しかし、この場合は、逃げる最初の気配を察知して飛び出して行ったのである。だから犯人がすぐその附近にいると思われた。逃げる姿は見えなかったから、犯人はまだ茶畑の茂みの中に息をひそめて隠れていると思われた。だから、彼らは是が非でも犯人を逮捕しようということに全神経が集中し、畑の中に飛び込み、必死になって畑の中のあちこちを探し廻ったのである。このことは、一審証人山下了一の「大谷木警部などと一緒に佐野屋の東の畑の中を捜索した」という供述、同、増田秀雄の「みんなが笛をぴいぴい吹いたり懐中電灯を振り廻したり、大勢飛んで歩いていた」という供述などによって訴訟上証明されている。当時の報道紙誌にはこの時の情景がたくさん描かれている。この場合、警察官がこのように行動するのはまったく当然のことであって、少しも非難されるいわれはない。むしろ警察官がこれと違った行動をすれば、それこそ奇異であり非難さるべき事柄であった。

しかし、このもたらした結果は、のちの捜査にとっては必ずしも好都合ではなかった。というより、甚だ都合が悪いことになったのである。何故なら、右のように多数の警官が慌てふためいて畑の中を走り廻った結果、畑の中は至る所踏み荒らされ、滅茶苦茶に足跡がついているという状況になっていたからである。この調書にも「県道南東畑地を見分する、不老川に至る間無数の長靴及び地下足袋ズック跡が認められ」たと書いてある。

このような状況の中では、犯人の連続した足跡を発見出来ないことがあるのも、至極当然であろう』

*次回、(四)に続く。

○引用した文章を補強できるかどうか分からないが、この写真を載せてみる。画像を拡大すると右端に×印が確認できる。ここが犯人が出没した地点であり、この後に×印地点から左下方向へ逃走したとされている。写真上部周辺に待機していた警察官ら三十数名が、一挙にこの茶畑になだれ込み犯人検挙に奔走するが、結果は凶と出る。犯人は取り逃がし、現場は各種足跡で埋められた。どの足跡は誰のものかなど、ほぼ判別はつかなかったことは想像にかたくない。この、負の展開が狭山事件の黒い土台をかたち作ってゆくのである。

狭山の黒い闇に触れる 487

【公判調書1597丁〜】

「現場足跡は偽造された」                                植木敬夫

二、足跡採取の怪

(二)、『第二の足跡についての記載もまた奇怪至極なものである。

それは、農道から畑の中を西に向かって「十八ヶ」あったという。それは畑の中途で消えている。その先のことは書いていないから、調書の文章からは、当然その先には足跡が無かったということになる。何しろ調書の末尾には「此の他見分中資料の発見に至らなかった」と書いてあるのであるから、このことを疑う余地がない。もっとも、二審証人長谷部梅吉は、このことについて弁解を用意していた。彼は、この足跡は犯人の潜んでいた地点まで続いていたという。

実況見分調書の中のおかしな部分を後になって「言葉」で補うのは簡単であるが、しかし、それによって事実が隠蔽出来たかどうかは自ずから別問題である。

われわれは、長谷部に対して次のように質問してみたい。

実際に足跡が続いていたものなら、なぜ、そんなにも簡単なことを書かなかったのか。見分者は現に第三の足跡について、わざわざ「三十米に亘」っていたと書く知恵と能力を持っているではないか。また、実際に足跡が続いていたとしたら、なぜ、その中から、わざわざ「十八ヶ」と特定した足跡だけを指示したのか。または、指示することができたのか。また、この足跡が犯人の潜んでいた場所まで続いていたのであれば、その附近の見分で、第一の足跡以外にも足跡が当然あったことになるのに、なぜ、第一の足跡「一ヶ」しか発見できなかったのか。

これらの質問に長谷部は答える術がないであろう。つまり、彼の証言は思いつきの嘘にすぎない』

*次回、(三) へ続く。