アル中の脳内日記

アル中親父による一人雑談ブログ

狭山の黒い闇に触れる 364

【公判調書1336丁〜(15/21)】公判調書の1334〜1335丁が落丁しているため、本日の引用は次の二行となる。

〜人数が増えて警察では又大変でせう。これ以上を聞かれても言いたくありません。被疑者。

*この二行だけでは意味がわからないが、しかし、いつの日か、調書の落丁した部分に出会える奇跡を信じこの二行を記録しておこう。さて、今回は調書からの引用があっさりと終了してしまい、その隙間を埋めるわけではないが、ネット上で見つけた狭山事件に関する記事を載せておこう。記録しておいて損は無い内容である。転載した記事は『』で囲っている。

『平成四年十二月九日提出  質問第一八号

供述調書の信用性判断に関する質問主意書

提出者  鈴木喜久子

 

供述調書の信用性判断に関する質問主意書


 いわゆる狭山事件、一九六三年、埼玉県狭山市でおきた女子高校生殺害事件は、概略、つぎのような経過をたどっている。
 五月一日午後七時三十~四十分頃、被害者宅玄関ガラス戸に脅迫状が差し込まれているのを被害者の兄が発見した。五月二日夜十二時頃、脅迫状に指定された佐野屋に被害者の姉の登美恵さんが身代金に見せかけた紙包みを持って犯人の現れるのを待ち、捜査本部は四十人の警察官を張り込ませた。現れた犯人と被害者の姉との間で約十分にわたるやりとりがなされたが、警察はついに犯人を取り逃がすという大失態を演じ、五月三日より開始された山狩り捜査によって、翌四日朝に被害者の遺体が発見され、同日午後七時から九時にかけて県警鑑識課所属の警察医の五十嵐勝爾氏によって解剖され、鑑定が作成された。
 この捜査の経緯におけるいくつかの疑問点について尋ねる。

一 一九六三年五月九日付『朝日新聞』埼玉版によれば、五月八日、埼玉県議会の社会党議員から捜査経過について説明を求められ、犯人取り逃がしの失敗をきびしく追及された際に、上田・埼玉県警本部長(当時)は、「いまのところ犯人は単独か共犯であるか決め手はない。とにかく殺してから金を要求した犯罪は前代未聞で悪質きわまりない」と答えたと報じられている。この上田・埼玉県警本部長の「犯人は殺害後に身代金を要求した」という根拠は何か。
二 同じく、五月四日付『朝日新聞』夕刊には、「死後三日を経たものと見られ、本部では殺害の犯行時間は一日午後三時か四時ごろではないかとみている」と報じられている。
  この犯行時間の根拠は何か。
三 警察は通常、殺人事件がおきたとき、死亡時刻を何時の時点で、どのように発表するのか。
  犯行時刻の推定は、事件の解明にとって重要な捜査であるが、科学捜査では、どのように犯行時間ないし死亡時間の割り出しがおこなわれているか。
四 これまでの冤罪事件では、多くの場合、自白に信用性がないことが証明され、誤判が明らかになっているケースが多い。自白の信用性の判断は重要な問題であるが、自白の信用性を判断する基準は何か。
五 狭山事件で、石川一雄氏の自白によれば、体重五十四キロの被害者の死体を前にかかえて、死体隠匿場所に選んだ畑の中のイモの貯蔵用の穴まで運び、足に木綿ロープをくくりつけ、さらにそれに荒縄を結んで、この穴(二・七メートル)に逆さづりにしたとなっている。殺害地点からこのイモ穴までの距離は、検察官の実地検証によれば、約二百メートルである。
  また、自白によれば殺害現場は雑木林の中であるが、犯行時の心理として、わざわざ雑木林内から人目につきやすい農道を通って死体を運ぶのは不自然であり、また、五十四キロの死体を二百メートルも前にかかえて休まず運んだという自白内容は明らかに経験則に反していると思われる。弁護団は、ボディビル歴のある男性に五十四キロの人形を運搬する実験をおこない、心拍数などを測定することにより、このような死体運搬がありえないことを証明する意見書を提出している。このような自白は常識的にありえない。
  検察官は、常識的にありえない自白調書でも証拠としての証明力があると思うのか。
六 同様に、死体の足首を木綿ロープで縛り、それに荒縄を結びつけて逆さにつるし、穴に出し入れすれば、死体足首に損傷・痕跡が残るのが経験則上考えられるがどうか。
七 一九六三年七月三日付『朝日新聞』埼玉版には、「警官エキストラで・ロケさながらの検証」という見出しで、石川一雄氏の自供に基づく実地検証が七月四日午前十一時すぎから浦和地検の滝沢弘検事、特捜本部の青木一夫・諏訪部正司両警部らの指揮でおこなわれたことを報道している。そのなかで、「死体をつるしたイモ穴が調べられた。警官がナワで体をしばられて穴につり下げられ、普通の男の力で引上げられるかどうかなどが調べられた」と書かれている。また、「八ミリ映写機で撮影するなど映画のロケーションさながらの検証」とも書かれている。これは自白の信用性を判断するうえで重要な資料と考えられ、この「つり下げ実験」の模様を撮影した八ミリフィルムも存在するはずである。
  この実地検証の記録および八ミリフィルムは現在、どこに、どのように保管されているのか。
  弁護団からの要求があれば開示するべきだと思うがどうか。

 右質問する。』

*以上がネット上で見つかった記事である。この情報が正確だとすれば私にとって久々の刺激剤となり、日々の生活に極度な張合が生まれかねない特殊な効果を生むのだが。さて八ミリフィルムの件などの情報は狭山事件弁護団は把握済みなのかどうか気になる所である。差し当たって1963年7月3日付朝日新聞・埼玉版の入手が喫緊の課題となろうか。それにしても老生のごとき痴呆老人でも、こうして関心のある事柄にアンテナを向け情報収集を行っていると、以外と重要なネタに触れることが可能である事に気付く。今後も某圧力団体の目に触れぬよう用心し、狭山事件の情報分析に邁進したい。

昭和三十八年五月四日、死体発掘を行う埼玉県警機動隊員。写真は「無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放運同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社」より引用。

狭山の黒い闇に触れる 363

【公判調書1332丁〜(12・13・14のいずれか/21)】調書の落丁という問題が、いよいよ事を複雑にしてくれる。今回引用する供述調書は全二十一通の内、十二通目、十三通目、十四通目のどれかである。落丁ゆえ引用は供述の途中から始まる。 

〜したのは三月五日、六日の二晩だったと思います。私が高橋良平のダンプに泊まった頃は、昼間高橋良平の近所に住む友達の北間おさむ三十五才くらいの処に遊びに行き、私が石田の処に働いている頃持っていた着替えや作業衣等を妹から貰った白い袋の中に入れて持っていたのを預け、北間おさむさんや奥さん、おばさん達に、石田を辞めて仕事がなくて困った話しをしたら、北間さんは俺の処で植木屋の仕事をして見ないかと言われましたが、植木屋の仕事は毛虫が嫌のため断ってしまいました。それで三月七日には元石田養豚場に働いていた頃の友達である狭山市柏原の東島明さんの家へ遊びに行き書間は東島と二人で入間川で遊んで夜は東島の家へ七日、八日と泊まり込んだのです。九日の晩は東島と東島の友達である、びしこの男二十四才くらいの処へ行き、その晩東島と二人でその近くの百姓屋から鶏二羽を盗んで来て三人で食べてそこへ泊まりました。

(五)それで三月十日の朝、東島と二人で入間川駅からタクシーで堀兼の北間おさむの家へ、何か仕事でも有るかと思って行ったのです。私達が行くと丁度北間さんが居て、そこへ三十七、八才くらいで元北間さんの処の物置に住んでいた植木職をしている人が来て、私達二人に対し、お前等二人共遊んでいては仕方ないから俺が北田(ここで突如、北間から北田に変わる!筆者注)さんに判らぬよう百姓屋へ世話してやろう、お前等良かったら今日午後三時頃まで北田さんに遊んでいろ、俺が仕事を早く終して帰って来てお前等を先方へ連れて行ってやる、と言うので私も東島もその心算になりその日は北田さんの処で夕方までその人を待っていたら、午後七時頃になって帰って来てお前達これから先方の百姓屋へ連れて行ってやると言うので私と東島はその人に従って歩きで所沢市の北の方の地名の知らない大きな百姓屋へ連れて行かれたのです。先方へ着いたのは大体午後八時過ぎでした。先方へ着いたら年令三十五、六のおばさんと二十二才くらいの娘が一人居て主人は居ませんでした。その家へ行く途中、世話人は私達に、先方に着いたら豊岡の百姓屋に二人共三年以上奉公して百姓の仕事はなんでも出来る、豊岡の百姓屋は止めさせて来たんだと俺が言うから調子を合わせろと言われておりました。それでおかみさんは私達にお茶を入れてくれ餅の焼いたのを出してくれて色々話しを始めその間東島や世話人は餅を食べましたが私は一切れも食べませんでした。その中におばさんは始め私達に、皆さんは豊岡の何処に奉公して居ましたか等と聞くので私も東島も面食らって仕舞い黙って居ると世話人が豊岡の何処々々だといい加減な話しをして調子を合わせてくれたのです。その時色々世間話等世話人として居りましたが、切れ間にそこの家のおばさんは私達に私方でも奉行人を使うのには皆さんの住所と名前くらい知っておきたい言いましたから、世話人が自分で持っていた帳面を出しその帳面の一枚を切り取って私に出して書いてくれとと言うので、私が先に世話人が持っていた鉛筆を借りてその人の手渡した帳面の破ったものに、狭山市入間川2906石川一夫、と書きそれから東島がやはり住居と名前を書いたと思います。その書いた紙切れは世話人がおばさんに渡したと思います。その時私が使った鉛筆は世話人に聞いて見れば判ります。なお、その家で色々話しをしている時、娘が座敷で、私達が豊岡の百姓屋に三年も居たという話しをしたら、娘さんは、私は豊岡も入間川も良く知っているという話しをしたので、私も東島もこれは嘘がばれてしまうと思い、嫌になってしまいました。その様な話しで私と東島の二人は明日からお世話にて働くという事になり、その頃雪が降っていたので世話人かその家から自動車屋へ電話をかけタクシーを呼んでくれ私と東島の二人に乗れと言って乗り、始め世話人の人の家で世話人と別れ、その際明日は天気になったら二人共行ってくれよと念を押されたので私も東島も必ず行きますと返事をしたのです。それから私と東島はその車で東島の家まで行き、その晩は東島の・・・・・・。

・・・ここで再び落丁している。興味を持って文章を読む過程において、この落丁という事象にぶち当たった場合、精神衛生上、非常にストレスを感じる。落丁した紙には何が書かれていたのか、そもそも何故落丁したのか、何か、特定の主張を発する団体による工作なのか。いずれにせよ落丁問題は別個に追及せねばならず、これは最終的には狭山事件弁護団に問い合わせる事になりそうである。小心者の老生は今その段取りを考えつつあり、まずは弁護団による現地調査等に参加し、その過程で、老生の狭山事件及び再審請求に対する並々ならぬ情熱をアピール、頃合いを見て公判調書の落丁問題を指摘し、欠落している部分を復元させるのである。

 

狭山の黒い闇に触れる 362

 

【公判調書1329丁〜(11/21)】1930〜1931丁が落丁している。

供述調書(甲)

右の者に対する恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月九日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)私の彼女関係についてお尋ねでありますからお話し致します。私は前にもお話ししました通り田無町の東鳩に勤めていた頃、二年間も交際した海老沢菊江という女は本年一月死んでしまいましたが、その他に、やはり私が東鳩に居た頃交際したスケ(彼女)は田無町から通っていたぜんけんと言う二十一才くらいの女、田無町から通っていた海老沢久子二十二才くらい、川越の人で西武バスに勤めていた名前の知らない十九才。この女は私方へ二回くらい尋ねてきた事があり、背が高く丸顔で色は黒い方でしたが当時田無の営業所に勤めておりました。今お話しした女も絶対関係をした事はありません。海老沢菊江からは交際中、金張りシチズン三針の腕時計、革手袋、ライター、人形コケシ等貰いましたが腕時計は紛失し、ライター、革手袋は使っている中何処かへ行って現在ありません。コケシ丈は今でも私方に保存してあります。石川一雄

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した。(ここで落丁している)

*いやはや落丁という事象は書物において最悪の事態をもたらす。フィクション物ならばいざ知らず、裁判記録にそれが確認された場合、記録の確認や検証が正確に分析できぬ事態に陥いる。私がコピーした公判調書だけに落丁があるのかどうか、他に存在する狭山事件公判調書の所在を思い出して見ると、Amazon古本屋で公判調書セット・二十万円という物や、狭山事件再審闘争本部内の床に積まれた公判調書の山などしか記憶になく、これらを比較の対象にする度胸は老生には無く、従って落丁だらけの公判調書を頼りにするしか手はないのである。

私が図書館でコピーした公判調書は写真と同様の装丁である。となると市販されたこの書物は落丁部分などが共通している可能性がある。余談であるが、私が公判調書をせっせとコピーをしている途中、図書館の係員により著作権の関係で完全コピーには問題が発生する旨を伝えられる。しかしその著作権は裁判記録の場合、国に帰属し公共物となるわけで、その心配は皆無だと伝え、事なきを得る。簡単に書いているが、その決済は図書館長によるものであった。

 

 

狭山の黒い闇に触れる 361

【公判調書1328丁〜(10/21)】1326〜1327丁が落丁しているので、十通目の供述調書=昭和三十八年六月九日付は途中から引用となる。

〜海老沢は本年一月頃死んだと言う話しを聞きましたが葬式にも墓参りにも行った事は有りません。私はその頃他にスケ(彼女)が居たからで別に悲しみもしません。そのスケ(彼女)の事は言う必要がないから話しません。

(四)次に、水村正ちゃんという自動車の修理業をしている人に、東島が高橋良平の単車を破損して修理代が三万円以上も払ってなく、私が仲に入ってその修理代を東島に払わせると言ったので、水村さんの奥さんが私の処へ請求に来たのは選挙の日で、私が川本やすしと投票に行く前の事ですから四月三十日午前十時頃でした。この時は東島の処へその話しをしに行きませんでした。

(五)次に、五月一日の手紙の事について又お尋ねですが、私は手紙を書いたり、持って行ったりした事した事もなく、五月二日の晩、佐野屋の前へ金を受け取りには行きません。二日の晩、刑事さんは何故その犯人を捕まえなかったか、その時捕まえて仕舞えば世話はなかったと思います。石川一雄    

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのないことを申し立て署名指印した。

狭山警察署助勤  刑事部第一捜査課  司法警察員警部  清水利一  立会人  司法警察員警部補  遠藤三

本文でも触れている佐野屋周辺を観察に行く。堀兼地区に到着し、早速写真右隅を注意深く見ると・・・

シャッター付き建屋があり、概ねこの辺りに佐野屋が存在していた。さらに接近する。

先ほどのシャッター付き建屋から数十メートル左の地点、白いトラックがいる辺りが、本日の観察対象である。緊張しつつもさらに接近。

中央やや右奥に電柱が見えるが、この電柱から左側数メートル以内、そしてもう少し畑に分け入った所が犯人が現れた場所である。緊張のあまり呼吸が苦しい。

月夜の晩、垣根の向こう側で犯人は息を潜めていた。その犯人の指示通りハンカチに包んだ身代金を持ち被害者の姉が近づいたのは、右側数メートルの地点であった。なおこの写真を撮影直後、私は自転車ごと転倒し、道ゆくファミリーカーの嘲笑の的になる。場所が場所だけにこんな所で目立つことは御法度であり、某圧力団体が駆けつける前に必死で逃走を図る。

狭山の黒い闇に触れる 360

【公判調書1325丁〜(9/21)】本日、ここへ来て、調書に大変な問題があった事を思い出した。公判調書が数ページに渡り抜け落ちているのだ。落丁と呼ばれる事象である。私の所有する公判調書は図書館でコピーした物で、この落丁についてはコピーしている時点で把握していた。そのうち、いつかはこの落丁した箇所に行き当たる事は分かっていたが、それが今日であった・・・。したがって調書から引用する文章は、突如ブツ切れとなる箇所が現れるだろう。一応、対策など考えながら進めて行こう。調書1325丁の次、1326〜1327丁が落丁している。

供述調書(甲)

右の者に対する恐喝被疑事件につき、昭和三十八年六月七日狭山警察署において、本職、はあらかじめ被疑者に対し、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げて取り調べたところ、被疑者は任意左のとおり供述した。

(一)私方で毎月読んでいる新聞紙の事についてお尋ねで有りますから申上げます。私方ではずっと以前から毎日新聞を取って居りました。それと言うのは私が石田さんの処を止めて家に帰った時は毎日新聞が入っておりました。本年四月からは報知新聞が入った様です。その頃は従って毎日と報知の両方が入っていたのです。ところが皆んなが余り読まないと言うので、父ちゃんが止めて仕

*落丁ゆえ、ここで一旦途切れるのである。後からこの頁が破かれた訳ではなく、もともと抜けているまま製本されてしまった様だ。私の知る図書館以外に、狭山事件公判調書を所蔵する公共施設はあるのかどうかわからないが、従って私がコピーの原本とした公判調書と他所に存在する公判調書とを比較する術はない。

散歩中に出会ったのだが、犬のようにスリムな猫である。

すでにエサが差し入れてあった。もう少し太ったが良いよ、君。

 

 

狭山の黒い闇に触れる 372

【公判調書1354丁〜】調書

右の者に対する強盗強姦殺人死体遺棄被疑事件について、昭和三十八年六月二十日川越警察署分室第一取調室において川越簡易裁判所裁判官・平山三喜夫は、裁判所書記官・町田類作立ち会いの上、右の被疑者に対し氏名、生年月日、職業、住居及び本籍を質問したところ

氏名は         一夫こと石川一雄

生年月日は  昭和十四年一月十四日生(二十四才)

職業は         鳶職手伝

住居は         狭山市大字入間川二九〇八の一

本籍は         右に同じ

と答えた。裁判官は、終始沈黙し又は個々の質問に対し陳述を拒むことができる旨並びに右の事件を告げ、これに関する陳述を聴いたところ被疑者は事実(○○*1さんのこと)は知りません、事件を起こしていないという事をお話しするという意味のことを話しただけで裁判所へ行っても○○(被害者名)さんのことについては知らないから知りませんと答えた。なお、裁判官は弁護人の選任ができる旨を告げ、且つ勾留通知先を尋ねたところ、勾留通知先は・・・・・・(注:1)と答えた。   被疑者  石川一雄

右のとおり読み聞かせたところ相違ない旨を申立て署名指印した。

裁判所書記官  町田類作

(注:1)原文では空欄となっている。

さて、老生が今、公判調書を読みながら迷子になりかかってきたので一旦ここで整理整頓しておこう。公判調書1304〜1354丁に記載された記録は、昭和四十三年、東京高等裁判所で進行中の狭山事件第二審において、石川一雄被告人及び弁護団より証拠請求された供述調書二十一通であり、この供述調書の日付は昭和三十八年五月から七月であるから、事件発生から間もない時期の供述調書である。それを前回まで二十数回に渡り引用したわけであるが、昭和四十三年の記録に昭和三十八年の記録が割り込んでいることが、老生が混乱した原因である。裁判記録とは非常に込み入った記載方法を取るのだなと感心してしまう。ところで、引用した二十一通の供述調書から「被告人石川一雄に対する取調べ状況および同人の供述経過」が明らかになったかどうか検証しなければならず、ここが重要である。踏みとどまって考えなければならないが今は保留とし、先へ進むことにする。

写真は、本文とは関係ないが狭山事件再審に向け大いなる貢献を果たす記録である。昭和三十八年五月二日夜半、犯人による脅迫状の指示にしたがって、被害者の姉、登美恵さんは地元の酒類販売業、屋号を「佐野屋」と名乗る小さな店舗に出向く。問題は、同日同時刻帯に、姉の準備した身代金を喝取せしめんと佐野屋に現れた(とされる)石川一雄被告人、その自白の中に語られた状況である。

この、身代金受け渡しの場所、脅迫状に指示された五月二日の佐野屋前の状況は、実は狭山警察署の職員と埼玉県警の職員からなる混成部隊約四十名が佐野屋周辺に潜伏していた事実が判明しているが、今、それは関係無く、本当に石川一雄被告人は佐野屋に来たのか、そこである。再現実験の結果によると、事件当夜は佐野屋前の砂利道を車やバイク、自転車などが通っているが、犯人の潜んでいた場所からすると、その音は確認出来、石川一雄被告人の言う「.何も気が付かなかった」旨の供述は破綻するのである。(写真一枚目は砂利道を走る自転車の再現実験。写真二枚目は佐野屋前の砂利道を走る車の音を測定している。二点の写真は“無実の獄25年・狭山事件写真集・部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編・解放出版社”より転載)

*1:被害者名

狭山の黒い闇に触れる 359

【公判調書1324丁〜(8/21)】

供述調書(甲)石川一雄

右の者に対する恐喝未遂被疑事件につき、昭和三十八年六月二日狭山警察署において、本職は、あらかじめ被疑者に対し自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げて取調べたところ、任意次のとおり供述した。

(一)私が入間川の自動車修理業木村正一さんの奥さんから、私の友人東島明が、堀兼の高橋良平さんから借りたオートバイを破損して、水村正一さんの処で修理するよう仲に入って話をした事で、東島がその修理代を払わない為、私の処へ請求された事がありますから申上げます。それは本年四月二十七日か二十八日又は三十日の何れかの中の午前中のことです。私が家に居りましたら、そこへ三丁目の水村正一さんの奥さんで名前を知らない三十四、五才くらいに見える女の人が来て、この前貴君が中に入って東島さんが高橋さんから借りて乗ったオートバイの修理代三万二千八百円とかを未だに支払ってくれないから何とかして貰いたいと申しましたので、私はその時奥さんに対して、それでは警察へ行って話してやる、と言うと奥さんはよろしくお願いしますと言って帰ってしまいました。私はその時東島の処へ行ってやる等とは言いませんでした。私がその時警察へ話すと言った意味はその事で三月頃狭山警察へ来て話しをしてあるからです。

(二)水村正一さんの奥さんが来た時、私方へ来ていたのは五十子米屋の倅か木村酒店の主人が居た様に記憶しておりますがどちらか判りません。

(三)水村正一さんから請求された金は私が保証人なった訳でもないし払う必要もないので、それはあくまで東島が支払うべきものです。東島が破損したオートバイは私が高橋良平から借りたものでは無く、はじめは石田豚屋の石田義男が高橋から借り、それを私が借り、それを又東島に貸して東島が乗っている中破損したものです。その様な状況で私には全然関係のない事では有りませんが、修理代を払う責任は東島明という事になります。

右のとおり録取して読み聞かせたところ誤りのない事を申立て署名指印した。於狭山警察署助勤  刑事部捜査第一課  司法警察員  清水利一

本文とは関係ないが、先日、所沢古本まつりに出かけ一冊の本を購入する。「放火魔・死刑囚古川義雄連続放火事件」・・・五百円である。戦前の西日本一帯で、判明しただけで五十五件の犯行を繰り返していた稀代の放火魔に迫る、読み手にも緊張を強いる内容となっている。そろそろ訪れる、秋の夜長を楽しむには格好の獲物である。